【長文】双極性障害とともに働いた約15年のこと

エッセイ本として自費出版する予定だった文章です。
前編・後編とか分かれていません。長くてすみません。

目次

はじめに

この文章は、私、かおらべが双極性障害(躁鬱病)を抱え、あがきながら働いてきた軌跡を綴った自伝です。
双極性障害(躁鬱病)とは、ハイテンションになる躁状態と、気分が落ち込む鬱状態とが、周期的にやってくる精神疾患(脳の病気)です。患者の多くは、この「気分の波」を、投薬治療で乗り切っているようです。投薬を施せばすっかり良くなるかというと、そうとは限りません。躁状態でも不機嫌やイライラを伴ったり、鬱状態では起き上がって動くことすら苦しかったりすることも少なくありません。躁と鬱が同時にやってくる混合状態というのもあります。

私と双極性障害のつきあいは、2006年に遡ります。今が2023年ですから、もう17年にもなります。2006年より鬱病の診断・投薬を受けていましたが、2012年末に新卒入社した会社を退職して以降は、いよいよ人生の崖を転がり落ちるような感覚で生きてきました。そして2013年、第二子出産後の見立てでは、「双極性障害」に診断が切り替わりました。ほとんど自己申告でしたが。

双極性障害に診断が切り替わって障害者手帳を取得してからも、クローズ就労(障害を明かさずに働くこと)を続けていました。結果として、短期離職を繰り返すこととなりました。紆余曲折を経て、障害者として働く道も志しました。この顛末については、文章の終盤で詳しく記したいと思います。

私には、大切な家族がいます。夫、長男(2009年生まれ)、次男(2011年生まれ)、そして同居している実母がいます。今、本を書いて生きる道を選択できているのも、なにより家族のおかげです。深く感謝しています。

家族のためにも、胸を張って生きていきたい。執筆活動を生きがいとして続けていきたい。今は、そう考えています。まるであとがきのようになってしまいましたが、これがスタートラインです。最後まで、お読みいただければ幸いです。

第1章 学生時代

2006年の1月、大学院1年生(M1)だったころの出来事です。
「民間ではやっていけないから、博士課程に進学しなさい」
教授の口から、そう言われたと記憶しています。

その日から起き上がることができなくなり、こんこんと眠り続けました。

さすがにおかしいと思い、心療内科の門を叩いたのが同年三月。
「鬱病ですね」と言われ、抗鬱剤が処方されました。

***

ひとり親である母が、私学の工学部の授業料を出してくれていました。私は、「早く就職すべきだ」「大学は4年で卒業するものだ」と、思いこんでいました。
しかし、教授は「君は研究に向いているね。大学院に進学しないか」と、誘ってくださいました。教授が私以外にも優秀な人をたくさん勧誘しているのは知っていましたが、嬉しいお言葉でした。確かに、私にとって研究は、楽しくて魅力的でした。
母は、意外にも教授の誘いを喜んでくれました。高学歴の方が良いと考えたのかもしれません。しかし、私はすでに学部3年次でインターンシップにも参加していたこともあり、就職以外の選択肢なんてないと思っていました。

**

ところが、大学院(博士前期課程)も中盤にさしかかり、いざ就職活動となったころ、冒頭の言葉を投げつけられました。そして、あわや再起不能かという事態に陥ってしまったのです。
その後幸いにも、共同研究をしている教授の研究室に変えていただくことができました。周囲の支援もあり、なんとかやってこられました。あるプロジェクトに応募して採択され、希望していた会社の内定も得ることができました。そこからは逆にグッと気分が持ち上がっていきました。お察しの通り、躁状態です。気分が上がった状態は、卒業まで続きました。

第2章 ハイテンションな新人

とある企業の社内向けIT部門に就職した私は、躁状態の中にありました。新人研修、工場実習もハイテンションで乗り越えて、本社配属となりました。
仕事内容の中間発表会の日、意気揚々とコピーを取り、配布する私を見た先輩社員が言いました。
「新人とは思えないよね!」
その言葉は、私の自信につながりました。

入社同期だった現在の夫とは、工場実習の終わりから交際をはじめました。遠距離ながらも楽しいおつきあいができて、満足していました。
新人研修最後の論文発表では、文字通りぴょんぴょん跳ねながらプレゼンテーションを行いました。私は、得意満面でした。軽躁状態が続いているのは、明らかでした。しかし当時、双極性障害の病識はなく、サインを見過ごしてしまいます。

一年目は、こうして楽しく過ごすことができました。しかし二年目になって、上司(部長・課長級)がみな変わってしまうという、悲しい出来事がありました。
入社前から目をかけてくれた人たちとの別れが辛かったのは、言うまでもありません。ただ、それ以上に辛かったのは、自分の「有能さ」を理解してくれている人がいなくなってしまったことでした。

周囲の人たちの自分への反応が、大きく変わったように感じました。「自分のことを信頼し、支えてくれた人たちがいなくなってしまった」と思いこんでいたのです。「いや、それが普通の反応なんだよ」と、今思い返せばわかります。しかし、二年目の私は、明らかに落ち込んでいきました。遅刻が増え、新しい上司にも心配をかけてしまいました。

一年目は、他事業部の人たちを巻き込む重要なプロジェクトに携わらせてもらっていました。ところが二年目は、一人で完結するような、地味な仕事に変わってしまいました。
私の仕事に対する意欲は、潰えていきました。

第3章 結婚・長男出産

仕事への意欲が尽き果てようとしていたにもかかわらず、仕事を辞めずに済んだのは、現在の夫のおかげでした。入社二年目の秋(2008年9月)に結婚する運びとなり準備に追われたこと、結婚してほどなくして第一子を妊娠したことが救いとなりました。どうにかキャリアをつなぎとめることができ、当時の私は「良かった」と感じていました。

結婚式は親族のみを呼び、東京でとり行いました。結婚パーティーは、東京と大阪の二拠点で催しました。幹事は同期の仲間にお願いできることとなり、とても助かりました。書けば一行で済んでしまうエピソードですが、私にとっては波瀾万丈でした。

産休に入るまではとてもしんどくて、タクシー通勤が当たり前になっていきました。この時期を持ちこたえた経験は、人生で頑張ったことベスト5に入ります。つわりが軽かったにもかかわらず、何がしんどかったか。それは、投薬治療の中止によって精神的な症状が顕在化したことでした。とはいえ、ホルモンバランスの関係からか、妊娠中の鬱症状は、最悪というほどのものではありませんでした。

実母との仲は、かねてより芳しいものではありませんでした。産休に入って以後は、実母への怒りと嫌悪感が一層ひどくなりました。忌み嫌っていたと言っても過言ではありません。つのるイライラを抑えるために、ゲームをしたり、カフェに入り浸ったりして、気晴らしをしました。

出産の体験は、長男と次男とでまったく異なっていました。長男のときは、一言で表すならば、「孤独な出産」でした。夜中に入院して、朝方ひとりで部屋に放置されました。不安が募ったことが、いまでも印象に残っています。夫が立ち会うはずだったのですが、夫からは「まだ時間かかるなら、出張に行ってもいい?」と言われました。「一生禍根を残す発言だなあ」と、怒りが止まらなかったのを思い出します。それでも、夫が育児・家事をなんでもやってくれる人だったこともあり、信頼貯金はマイナスにならずに済みました。

第4章 二度の転居・異動

長男の生後一ヶ月を迎え、夫婦で同居するため、実母を東京の家に残して関西へと転居しました。社宅暮らしは思っていたのとは異なり、普通のアパート暮らしと変わりませんでした。

私は、焦っていました。産休・育児休業を取っている間、社会から取り残されたような感覚に陥っていました。「早く復帰しなくては」と、思っていたのです。
転居した先で、鬱病の治療をしようと診察を受けました。しかし、「授乳中じゃ薬も飲めないし…」と言われ、絶望を味わいました。今となっては、「早く完全ミルクに切り替えて薬を飲んでおけばよかった」とも思います。当時の私には、母乳育児へのこだわりが強くあったようです。そして何よりも、自分が楽でした。夜泣きする日は、「添い乳」で寝かしつけてしまえばいいと思っていたのです。

鬱病の治療ができずにいた私は、孤独感を募らせていました。転居先で友達も知り合いもおらず、夫は週末にしか帰ってきませんでした。このころの私にとっては、ミクシーとツイッターが、唯一社会とのつながりだったのです(当時から今に至るまで、つながっていてくれる方々には感謝してやみません)。それでも産後、授乳中は、ホルモンバランスが安定していたようです。不安は強いものの、躁に傾いたりすることはありませんでした。

2009年の晩秋、関西での異動先が決まり、ほっと安堵していました。ところがそれも束の間、「二ヶ月育休を早めて復帰したい」と、私は会社に要望を出していました。少し躁になりかけていたのでしょう。会社側は、私の要望を汲んでくれました。2010年2月、晴れて復職する運びとなりました。
2010年1月には、私の新しい職場からほど近い神戸にさらに転居します。部署は、希望していた社内情報システム部門。いわゆる「工場の情シス」に成ることができ、喜びもひとしおでした。やる気に満ちあふれていました。保育園に子どもを入れる体験も、楽しいものでした。
ユーザー部門の人たちとの折衝が楽しくて、仕事にやり甲斐を強く感じていました。また軽い躁状態が始まります。

第5章 次男出産・職場復帰と転職

2011年の次男の出産は、長男のときとは打って変わって、助産師さんに支えられた温かいものとなりました。娩出後、思わず「おつかれさまー!」と声を上げていました。
「チームで何かを成し遂げるのって、すごいことだ」
感銘を受け、「自分もチームで何かやりたい」と熱望するようになりました。

産後3ヶ月の2011年12月に職場復帰。早すぎる復帰に、周囲からは驚かれました。「社会と隔絶される感覚を二度と味わいたくない」と、急いで復帰したのでした。

「ワーキングマザーサロン」のファシリテーター(進行役)にも名乗りをあげました。ワーキングマザーサロンとは、「母となって働くことについて語ろう」というスローガンのもと催されていた、働く・働きたい女性のための座談会でした。

ここでは、友人知人の力を借り、「チーム関西」として動くことができました。半年間のプロジェクトで、大阪・京都・奈良・兵庫(神戸)の各地で、ワーキングマザーサロンを催しました。
しかし、2012年秋にさしかかり、私のメンタルは躁から鬱へと転換していきます。
最後に企画したサロンは、開催すら危ぶまれました。同じ関西チームのファシリテーターに、代打をお願いすることになりました。「なんとかチームの力でつなぐことができた」と安堵しました。しかし私は、最後の最後で、チームの絆をぶち壊すようなことをしてしまったのです。
打ち上げ会で、何かわからずイライラして、その場から逃げ出してきてしまったのです。
用意してくれていた賞状や記念品は、後から近くに住んでいるメンバーが持ってきてくれました。今思い返しても、申し訳ないことこの上ありません。何年もメンバーに顔向けできない状態が続きました。躁鬱が人とのつながりをぶった切ってしまうことを示す、ひとつのエピソードでした。

追い打ちをかけるかのように、私は人生における重大な決断をしてしまいます。
かねてから水面下で進めていた転職活動で、一社から内定の連絡をいただきました。躁鬱混合状態にあった私は、これを快諾してしまいます。こうして、2012年12月、新卒で入社した会社を退職することとなりました。転職のことは告げませんでした。あくまで「鬱病悪化のため」としました。

「私なんて使い物になりませんから」
「そんなことはない!」

産業医面談では、ドラマに出てきそうな、こんなやりとりもありました。転職することを決めていた私は、結局、退職を押し切ってしまいます。
上長が「人生、長いから大事に生きてね」と、最後に声をかけてくれました。今でも忘れられません。

第6章 罠から奈落へ

2013年1月、私は新しい会社、とあるソフトウェア開発会社に移りました。
この転職は、罠でした。入ってすぐに、それを痛感することになります。

元々、前社では社内情報システム部門に従事していた私でしたから、新しい会社でも社内情報システム部門を志望していました。しかし、配属されたのは、新規に立ち上がった、システムの受託開発をする部署でした。
立ち上がったばかりの部署で、初期メンバーは5人。そこに加えられた私。さらに加わってきそうなメンバーたちの気配…。どう動いていいやら、わけがわからない状況でした。
よく考えてみれば、1歳と3歳の子を抱えての転職だけでも無謀でした。加えて、立ち上がったばかりのシステム受託開発の部署への配属なんて、無鉄砲以外の何物でもありません。

ベストが何かわからないまま、ベターを目指して進む。
納期があるから土日も出勤。夜の帰りは23時過ぎ…。

子育てはどうしていたかというと、昼間は保育園、夜は実母に頼りきりでした。
そんな生活を送っているうちに、「自分の人生における優先順位は、完全に狂ってしまった」「前職に留まっていればよかった」とまで感じるようになりました。
後悔の念は、今でも持ち続けています。
「子どもときちんと生活したい」という思いもあって、私はソフトウェア開発会社を4ヶ月で退職します。

退職にあたっての業務の引き継ぎはあったものの、4ヶ月で私がなし得たことなど、大した仕事ではありませんでした。メンバーには鼻で一蹴されてしまいました。それもあって、「この会社を辞める決断をしてよかった」と思ったのでした。
この会社にとって私は歯車の一部でしかないけれど、家族にとって私はただ一人しかいない母であり妻なんだ。そう思い、次のステップへと進むことにしました。

第7章 診断変更

次男出産後から、ハイテンション(=躁状態)気味となり、躁鬱混合状態にもなった私でしたが、断乳を境に、ひどいイライラに見舞われるようになりました。PMDD(月経前不機嫌症候群)だろうと自己判断し、PMDDの診療ができる医者に転医しました。
初診時、私は「元々鬱病の診断だったが、躁鬱病かもしれない」と自己申告しました。クリニックで、いくつかのペーパー検査を経たのち、「双極性障害だろう」という診断がおりました。改めて診断を得て、ほっとしました。
クリニックでは、気分安定薬や抗精神病薬を用いる薬物療法がとられました。ただ薬の数が多かったため、何が効いているのかよくわからない状態でした。
クリニックには3年近く通ったのですが、ある日突然、閉院してしまいます。小さいクリニックには、閉院というリスクがあることを知りました。

私は、入院病棟もある精神病院に転院します。信頼のおける主治医と出会え、多剤併用だった薬もシンプルに整理してもらうことができて、症状は安定してきました。
その病院で心理検査を受け、ADHDの診断も受けました。「双極性障害はADHDの二次障害かもしれないね」という医師の言葉に、安堵したのを覚えています。
しばらくは、ADHDの薬を服用してみましたが、あまり変化はなかったように思います。なお、現在の主治医は、このADHDの診断についてはなかったことにしています。その方が、都合が良いのかもしれません。

2023年現在も診てもらっている主治医は、月一回の通院時、とても穏やかに診察をしてくれるところが私にあっています。診察まで待ち時間が少ないところ、予約がいらないところも気に入っています。そして、なんと言っても家から近い。
たくさんの患者さんを抱えながらも、去年の体調のこともきちんと覚えてくれているところが好きです。

第8章 クローズ就労で働き続ける

ソフトウェア開発会社を退職して以降、私は「自分の働き方」について考えるようになりました。
「子どものためにも、自分のためにも、もっとゆるい働き方が良いのではないか…」
そう思うようになったのです。

しかし、当時の私は歩みを止めることをせず、働き続けることを選びます。精神障害を表沙汰にはしない、クローズ就労という選択を取ったのです。
障害者手帳の等級は、「就労不可」の2級でした。そんなことにはお構いなしでした。
ついには短期離職を繰り返し、多すぎる職歴が枷になって再就職が難しくなりました。

医師からは、
「かおらべさんは、躁になって就活して、鬱になって辞めるね」
そんな風に揶揄されるほどでした。

完全に自業自得なのですが、道を踏み外してしまったことを、非常に後悔しています。
フリーランスを目指して活動してみたりもしました。画像編集ソフトを扱うことができたので、クリエイティブ方面に進もうとスクールに通ったことも二度ほどありました。デジタルハリウッドの通信講座と、通学講座の両方を受講したりもしました。

しかし、フリーランスで得られるのは、単価数千円といったお金にならない仕事ばかりでした。私の浪費癖を補えるほどの収入にはどうしてもなりません。結局、また派遣フルタイムの仕事へと舞い戻ります。何社かで半年ほど働き続けることができましたが、それ以上は続けられませんでした。逃げるようにして退職することを、繰り返すことになりました。

そんな生活の中で、私は「ゆるはた」というブログを立ち上げていました。ブログを立ち上げては消してしまうのは私の悪癖なのですが…。「ゆるく働くを追求したい」という願いを込めて、「ゆるはた」というネーミングにしました。
しかし、それも長くは続きません。継続することが、自分の中で困難になっていました。完全に「辞めグセ」がついていました。否応なく、「働かないことを続ける」こととなりました。

少しうまく行かないことがあると、ぶった切って辞めてしまう。
この思考グセは、今でもなくしたいと思っている自分のクセです

第9章 コロナ禍と過眠

2019年12月、新型コロナウイルス感染症が猛威をふるいはじめ、2020年4月には、息子たちが通う小学校も休校となりました。

夫もリモートワークとなり、狭い家に家族が密集する事態となります。私は、内定を得ていたアルバイトの職を辞退することにしました。「働かないで生きてみよう」「専業母として生きてみよう」と思ったのです。

働くことでしか自分を承認・肯定できない私が、果たしてそれで生きていけるのか。疑問と不安はありました。しかしタイミングよく、自分の生きるモチベーションとなるイベントがやってきました。長男の中学受験でした。

毎週、宿題・テストに追われ、順位や偏差値といった数字に一喜一憂する。そんな日々はスリル満点で、躁鬱の私にはもってこいでした。夫とも作戦を練り、併願プランを考え、家族がチームになった感覚がありました。

2022年1月、なんとか中学受験を無事に終えることができました。しかし、コロナ禍は続いていました。その後も、いろいろな大イベントが続きました。長男の入寮、実母の不動産売却。私は、へとへとになっていたようです。いつしか、過眠(眠りすぎる症状)で起きられなくなっていました。1日18時間くらい眠っていたと思います。毎日、朝起きられなくて、不甲斐ない気持ちでいっぱいになりました。

そんなときに勃発したのが、長男の骨折でした。跳び箱を踏み外して受傷したとのこと。片足にギプスをはめられ松葉杖生活となり、学校登下校の際の送り迎えが必須となりました。おかげで起きあがることができるようになりましたが、それも束の間。あっという間にギプスははずれ、卒業。そして中学入学・入寮。その準備も夫に任せきりで眠る私…。嵐をやりすごすように、眠り続けました。

「身体弱くなっちゃうよ!」

という長男の一喝で一瞬目が覚めたかと思いきや、また眠り続ける。
長男が入寮で家を離れてしまい、寂しさで泣いてはまた眠る。

「どうしたらいいんだろう」

そう、思い続けていました。

転機は5ヶ月後、2022年9月に訪れました。

第10章 障害者として働く

2022年9月、私は、とある就労継続支援B型事業所に入所することにしました。就労継続支援B型事業所とは、こんな場所です。

・障害のある人が自分のペースで働ける施設
・A型は雇用型(最低賃金が支払われる)だが、B型は雇用されない
・働きに応じた工賃が支払われる
・世帯所得によっては、サービス利用料の支払いが生じる

私は双極性障害で障害者手帳も持っているので、利用要件は満たしていました。
事業所には、前々から見学や体験で行っており、チャットでのサポートが手厚かったことが印象に残っていました。自分の希望であるパソコンでの作業が主に行えることも、入所を後押ししました。
入所当日、私は過眠が怖くて眠れず、徹夜明けで出勤しました。サービス管理責任者の方が暖かく迎えてくださり、体調をねぎらってくれて嬉しかったのを覚えています。
ところで、なぜ当時の私は、いきなりB型事業所に入所したのでしょうか。それは、過眠が続く生活をどうにか変えたかったからです。
入所してみると、過眠はなくなりました。その代わり、早朝覚醒気味になりましたが…早く起きて活動して、夜早めに寝れば問題ないことでした。
2022年10月、私は自分専用のグループLINEにこう記しています。
「朝起きて、活動できて、仕事があって、ありがたい」

順調なように見えた日々も、長くは続きませんでした。
いくつかの要因で、事業所に飽きてしまったのです。

・パソコンを使った仕事は、単調なデータ入力が主だった
・日常会話ができるような人間関係を築けなかった
・事業所は安心できる環境ではなかった

自分が飽きてしまったことを自覚してからは、また過眠に陥りました。事業所通いも怠りがちとなり、自堕落な生活へとまっさかさまでした。
「話し相手ができるよう、カフェを運営しているB型事業所に移籍しようかな」
「もっと充実した仕事ができるかもしれないから、A型事業所の面接を受けてみようかな」
さまざまな思惑を持って、二転三転していました。
結局のところ、「私は責任を負いたくないのだ」ということに気づきます。すべてを放棄して、在籍中のB型事業所も退所することにします。見学・面接をお願いしていたすべての事業所に、辞退の連絡を入れました。

終章 そしていま

就労継続支援B型事業所を退所した私は、日々文章を書く主婦として生きて行くことを選びました。

日々書き物をして、昼ごはんを作り、また書き物をして、次男と夜ごはんを作る。そんな、なんでもない日々のルーチンが楽しいと思えています。今が幸せです。
「いま、ここを生きる」ことの大切さは、さまざまな書籍で述べられています。そのとおりだと思います。しかし、躁鬱の乱高下に振り回されてしまうと、それもままならないのが悲しいところです。
2023年4月現在も、躁に傾いては、「働きたい!」「働けるはず!」と周りを振り回してしまう悪癖が抜けきりません。日々、葛藤しています。

服薬治療も続けています。「一生、薬は飲み続ける」という覚悟は、とうの昔にできています。妊娠・出産が、双極性障害の治療を始める前だったため、子どもを二人授かることができました。このことは、人生において望外の喜びでした。精神疾患を抱えての子育ては、辛いことの連続でした。それでも、息子たちが思春期にまで大きく成長してくれた今、楽しい思い出しかありません。都合の悪いことは、忘れてしまうものですね。

私が最終的に「働かなくていい生き方」を選択できたことは、ひとえに家族、とくに夫のおかげです。このことを最後に強調させてください。「好きに楽しく生きていいよ」といつも言ってくれて、本当にありがとう。これからも、こんな生き方と暮らし方で楽しくやっていこうね。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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